大和の久すり 歴史概要




いつの頃から薬が使われるようになったかは詳らかではないが、古代にはいずれの国においても薬は天然の草根木皮で初めは単味で、その後は体験を重ね、副作用を去り、悪味悪臭をかばうものを加え複味のものが多くなった。 わが国の医薬術の歴史は、神話に始まっていて、日本書紀に「大国主命(おおくにぬしのみこと)は少彦名命(すくなひこなのみこと)と力を合わせて、天下を経営し、また療病の方を定められた」とある。このことにより日本の薬祖神は少彦名命になり、中国の薬物書である本草書『神農本草経』に名を冠した中国の薬祖神である神農(しんのう)氏とともに今現在に至るまで全国の神社で祭事されている。大国主命を薬祖神とされている神社もあり、薬師如来を奉っている仏寺など日本国中に広がっていった。薬師如来(やくしにょらい)はその名の通り医薬を司る仏で、医王という別名もあり、衆生の病気を治し、安楽を与える仏とされます。このため仏像も多くは薬壷(やっこ)を持っています。薬師如来信仰は飛鳥時代に始まり、法隆寺金堂の薬師如来光背銘文には用命天皇が病気になったとき、治癒祈願のため寺を建て薬師如来の像を祀るようにとの仰せがあり、推古天皇と聖徳太子がその遺志を果たしたと書いてあります。また、奈良・薬師寺には天武天皇の時代に皇后の讃良皇女(後の持統天皇)が病気になり、その平癒を祈願して寺を建てた所霊験あってすぐに直った為、これに感謝して薬師三尊を鋳造して納めたという記録が日本書紀にあります。 また、薬師(くすし)とは日本における医師の古称である。漢方薬の専門家で、本草学に基づいた生薬による治療を行なっていた。このように薬が使われるようになる。

 史実にみえたものを記すと、まず欽明天皇の13年(552年)、仏教がわが国に渡来して間もなく漢方の医術と薬物が入ってきている。また23年(562年)には漢の医書が入ってきているが、これが医書の入ってきた最初である。飛鳥時代に入り推古天皇の6年(598年)、皇太子厩戸皇子(うまやどのおうじ、後の聖徳太子)が「薬物は民を養う要物なり、厚くこれを蓄うるよう」と天皇に進言されている。(薬物とは「薬」の意の漢語的表現で、前述同様に薬草を意味する)
聖徳太子といえば、幼少のころまた斑鳩宮より橘宮へ通う時、奈良県橿原市今井町にある飛鳥川の蘇武橋(ソブバシ)を渡られています。その蘇武橋の横と弊社本社工場の北側の二ヶ所に蘇武之井( ソブノイ )という井戸があります。その井戸で聖徳太子が水を飲まれたり、愛馬黒駒の給水として立ち寄られ、この周辺を行動の範囲にされていました。〔私ども地元では蘇武橋とはほとんどの方はいいません。尊坊橋(ソンボバシ)といいます。蘇武之井を尊坊の井戸(ソンボノイド)といいます。尊坊橋の横を北尊坊の井戸、弊社本社工場の北側を南尊坊の井戸といいます。尊い人が渡られる橋、尊い人が使われる井戸という意味があります。〕また19年(611年)の5月5日に、天皇が群臣を伴って奈良県宇陀地方に薬狩りをされたことがある。これが生薬採集の最初であり、これが現在の菖蒲の節句の始めであると考えられる。

 文武天皇の大宝元年(701年)、有名な大宝律令が制定せられ、医薬の制度が布かれ、その中には大学をおき、また典薬寮を設け、薬園師、薬園生の官がおかれて、学生を教育し、薬の研究が行われた。
 この時代に奈良県御所市茅原の吉祥草寺に生まれた役の行者(小角)が、葛城山で修業し吉野に入り大峰山を開山した当時、木皮(黄柏)のエキスを製造した陀羅尼助と名づけ施薬を行った。その製法は、洞川方面において家伝薬として残り、現在も大峰登山客に珍重がられている。

 710年に都が藤原京(奈良県橿原市)から平城京(奈良市)に移って奈良時代に入る。天平勝宝5年(753年)、唐(中国)の名僧鑑真が遣唐使とともに来日し唐招提寺(奈良市西ノ京)を開いたが、その際「奇効丸」と称する方剤を持参し、施薬している。現在の六神丸あるいは清涼剤は、この奇効丸にヒントを得たものといわれている。また、種々薬帳(しゅじゅやくちょう)(756年に光明皇后が聖武天皇四十九日法要で東大寺大仏に献納した薬60種の名前や数量、重さ、容器などを書いた目録)が正倉院にあり、このうち五色龍歯(ごしきりゅうし)(象の歯の化石)、大黄(だいおう)、冶葛(やかつ)など約40種類が保存され、その形態は1250有余年を経た現在も変わらず効果を失っていない。末巻には光明皇后が「病に苦しむ人のために用いるように」と書いていて、実際に使われている。慈愛に満ちた皇后の人柄がわかる。

 薬が代価を定めて販売せられるようになったのは、和同元年(708年)以降鋳銭が通貨として大衆に普及した以降のことであるのは当然であるが、本格的に売薬化したのは相当後世で吉野朝(1336〜1392年)以降と考えられる。当時朝廷の力が低下し、兵火により寺院の経済も苦しくなり、その寺坊の再建に、また経営のために薬をその資とし、あるいは民間においても生計のために代価を定めて販売したのが売薬の初めである。

 こうして寺院等で育てられたいろいろの合薬が民間に家伝薬として受け継がれ温存せられて、江戸時代に入った。 江戸中期の享保14年(1729年)森野藤助が薬用植物園を開設する。奈良県宇陀市大宇陀にある森野旧薬園で、小石川植物園と並ぶ昔のままに残っている日本最古の史跡である。また、
宇陀市大宇陀の伝統的な街並みが残る「松山地区」の一角にある宇陀市大宇陀歴史文化館『薬の館』。ここで代々薬問屋を営んでいた旧細川家を利用して、資料を展示している。また、細川家から藤沢家に養子に出た「友吉」さんが、藤沢薬品工業(現アステラス製薬株式会社)の創設者となったという、由緒正しき家柄である。この町を出自とする製薬会社にツムラ、ロート製薬などがある。また、大和を出自とする製薬会社となるとさらに数多くみられる。

 大和の薬が神社、仏閣の施薬、頒薬から民間に移ったことは前述の通りであるが、富山において、藩主前田正甫(まさとし)公が「延寿反魂丹」を藩政に売薬としてとり入れ、江戸城中においてその効果を示し全国に販売の承認を得る。また、大阪では唐薬の流通で発展してきた道修町がある。このようにわが国の売薬には、出雲系大和三輪山麓の居住民の発祥といわれる大和売薬、天和年間、備前岡山の医師万代浄閑による反魂丹に始まる富山売薬、近江商人とともに発展した近江売薬、長州伊佐村起源の伊佐売薬、対馬藩田代領を中心とする田代売薬、大小規模を異にするいくつかの系列がある。これらが元禄、享保の頃より次第に全国的に広がった。

 そして、明治、大正、昭和時代へと変遷していく。昭和18年3月薬事法が制定せられ「売薬」という名称が消え、昭和19年1月第84帝国議会において売薬にかわる「家庭薬」という名称が確立した。昭和22年に公布せられた薬事法は昭和36年に大改正が行われ、昭和後期、平成に入ってからも薬事法の改正等の変遷がある。

 セルフメディケーション(自己治療)に用いられる薬を一般用医薬品といいますが、大衆薬(家庭薬)とも呼ばれています。これらの薬を正しく使用することによって私達の健康に大いに役立ってきています。このように大和(奈良県)は日本のくすりの発祥地であり、日本の歴史と文化に大きく関わり今日に至っています。薬の語源は不思議な、神秘的なという意味の形容詞「奇すし(くすし)」からとされ、「奇すしき力を発揮することからくすりというようになった」といわれています。また、薬という字は草かんむりに楽しいと書きます。これは薬草を飲んで身体が楽になるという意味です。何か今も二千七百年前の昔も変わらない歴史の重みと不思議さを感じます。







薬祖神 神農






古代ロマン



     
『大和』は奈良県の大和三山(畝傍山‘うねびやま’・耳成山‘みみなしやま’・天香久山‘あまのかぐやま’)から三輪山麓、山辺
   の道にかけての 一帯(橿原市・桜井市・天理市・田原本町周辺)だったのが奈良県全部ひいては日本国全体を指すようになる。

     
古事記、日本書紀を見ると「倭」「和」「大倭」「大和」「日本」いずれも「やまと」と読ませている。

     
最初中国で命名された国名は「倭(わ)」でありましたが見下した言葉だったので「和」と変え、それが「大和」となったのは中国で
   は随、唐を大随、大唐と呼称されたのを真似たか、二字政令の影響があったと考えられる。

      やまとの語源は山に囲まれた地域、山都、神が宿っているところの山門、三輪山から山東を中心に発展した地域、山に繋がる広
   い台地、山人、山常、山元、山のある場所の山所、山のあるところの山処という説がある。(諸説あり)

     
まほろばの語源とされるまほらまには真秀(まほ)と接続語の等(ろ)そして間(ば)と表わされ、「素晴らしく、すぐれたよい所」とい
   う意味であります。国の中心(中央)にあり、穂がよくでき、住みやすく、すぐれたよい所、空間つまりユートピアを指す。

     
『飛鳥』は大和三山にかこまれた飛鳥川中流一帯の地域(橿原市・明日香村・高取町の一部・桜井市の一部を含む)で推古天皇
   から元明天皇にいたる約1世紀の間(592〜710年)歴代の皇居がおかれ、仏教文化がさかえた。

     
古事記、日本書紀、万葉集等から飛鳥、明日香、安宿、阿須賀、阿須可、安須可等いろいろの文字が用いられている。

     
古事記、日本書紀などは主に飛鳥を用い、万葉集は明日香の表記が多い。

     
あすかの語源は日本に移住してきた渡来人がさすらいの果てに得た安住の地という意味で、安宿(アンスク)と名づけたのが転じ
   たといわれる説がある。(諸説あり)


     
奈良(なら)の語源も渡来人のことばでナラは国とか都を意味するというところからなった説。奈良県内には地名として広陵町百済、
   田原本町唐古など結構多く存在するのも事実である。また、平坦な地形であり、平にするという『ならす(均す・平す)』からならの語
   源になったのではないかとする説(諸説あり)

      藤原京の後に奈良(なら)は日本の歴史的首都であった平城京に当たる。万葉集で「奈良」と表記されている。また「寧楽」「平城」
   「那羅」と万葉仮名表記されている。平安京(京都)に都が遷った後は南都(なんと)と呼ばれた。

     
「世の中はなにか常なる飛鳥川昨日の淵ぞ今日は瀬になる」 『古今集』 飛鳥川は中和(奈良県中部)を流れる川で大和三山の
   畝傍山(うねびやま)と天の香具山(あまのかぐやま)の間を流れ、弊社本社工場北を流れ、大和川に注いでいます。飛鳥川は川
   の流れが絶えず変わったことから世の中の移り変わりの激しさを歌っています。現代社会だけではなく昔から同じようです。

      あすかの地名としては、飛鳥の字が一般的に定着していた。「明日香村」は昭和31年に飛鳥村、高市村、阪合村の3村が合併し
   て生まれた村名である。3村の和を大切にし村名がつけられました。

     
橿原の地名由来は橿(かし)の木からで、橿(かし)は非常にかたく、年中緑を保ち、大木として成長し発展を重ねるという意味が
   あり、橿原遺跡発掘の際、橿の巨根や巨樹の残がいが掘さくされた事実からも橿原の地名にゆかりが深いものであると考えら
   れる。

     
初代天皇である神武天皇(じんむてんのう)が橿原の宮に即位したとされる年を元年とする紀元(皇紀)がある。西暦の紀元前660
   年とされていることから西暦2015年(平成27年)は紀元2675年となる。戦前まで和暦とともに日常に使われてきた。


      紀元弐千六百記念事業(昭和15年)橿原神宮の参道の植樹や森林整備等に全国の有志者、修学旅行生を含め、120万人以上の方
   が勤労奉仕されました。また博覧会、体育大会などさまざまな記念行事が全国各地で催されました。西暦1990年、(社)橿原青年会
   議所として御鎮座百周年大祭(平成2年)並びに紀元二千六百五十年記念事業にパレードや記念事業に参加、参画させていただきま
   した。誠に光栄至極感謝申し上げます。この歴史ある橿原神宮から「神宮の森にカルチャー・ウエーブを!」を合い言葉に『神宮の森
   に野外ステージの建造を!』を提言提唱しています。お年寄りから子供さんまで楽しんでいただける数万人規模のものであります。
   また、平成28年4月3日には、御祭神神武天皇様の御聖徳を偲び、顕彰するための祭典として「神武天皇二千六百年大祭」が行われ
   ます。


☆    大和、飛鳥は我が国の発祥地でもある上最初の国際都市でもあり、自然に恵まれた文化発祥地で日本人の心のふるさとである。













                 

歴史と出逢う都市 かしはら                                             タイムスリップ江戸IN





                  しょうねんじ

今井町と稱念寺そして大和の久すり



    
海の堺   陸の今井

     自治都市 今井

     今井千軒 八木八軒

     大和の金 今井に七分

     大和五ヶ所御坊



 今井の名が文献上現れるのは至徳三年(1386)で、当時は興福寺一乗院に属する荘園であった。今井が南大和における一農村集落から町場へと大きく転換していく契機となったのは、新興の名主層や在郷武士等が一向宗に帰依し、南大和を中心に次第に勢力を蓄えていったことと深い関係を持つ。天文年間末の今井の門徒衆のなかに今井兵部という実力者(本願寺一家衆)がいて、その関係もあって今井は本願寺の勢力を背景に商業的発展を開始し、次第に町場として変容していったと考えられる。また、大和諸豪族の抗争に敗れた十市氏や後の今井の惣年寄を勤めることになる今西氏(八つ棟造り)、尾崎氏、上田氏といった地侍等多くの有力門徒衆が相次いで移住した。かれらの新興住民の多くは、商人となって活躍し、今井の商業的発展を支えたのである。

 信長時代は今井も本願寺に荷担し信長勢に対抗したが、秀吉時代は本願寺に対してこれを保護する柔軟な姿勢を示した。天正十一年(1583)本願寺ゆかりの人物が今井に入り御坊を興した。この人物が堺の今井宗久の縁者とも云われる。また、天文年間に活躍した今井兵部の名跡を継いだものとも考えられる。(歴代の住持は、今井兵部と名のり、代々今井氏が世襲して現在に至っている)以後今井は名実共に寺内町として発展する。

 今井町の町並みは称念寺を中心とした寺内町で完全な城塞都市で周囲には環濠土居があり、内部の道路も見通しのきくものはなく、ほとんどが一度屈折させてある。これは敵の侵入に備えて、その遠見、見通し、弓矢・鉄砲の射通しを不可能にしたものであった。これらは当初、軍事目的のためにつくられたものであるが、江戸時代中頃には富裕な商人の生命、財産等を外部から守るというものに変貌した。9つある町門のうち、夜間は東西南北の4門のみ吟味の上出入りさせ、他の5門は一切出入りを禁止にすること、今井には旅籠屋はないので、取引先の商人や身元確かな人でも一泊限りとすること、火災の時は、9門を閉め他所の者は入れないことなど商業活動が盛んな富裕な町であるゆえに治安や非常の場合のことを中心に12項目に及んだ。町の自治は、惣年寄3人を筆頭に、町年寄11人、町代6人、肝煎6人が代官の命を受けてあった。また、今井は当時村の扱いを受けていたが富裕な町場であったので、古くから「町」と俗称していた。享保期以降になると公の文書にも「今井町」と記されるようになった。銀札遣い(今井札)が許されていたこともあって、商業活動が一層活発になった。そして、生業の成功から、両替商を営み旗本や大名貸しを行うものも出現した。

 町方の繁栄は、幕末から明治初頭においてもなお近在の村々より抜きんでていた。明治十年二月の明治天皇の畝傍御陵参拝、この参拝は京都行幸に関連したもので、天皇一行は今井を宿所にし、行在所に称念寺が当てられた。明治二十年代に今井町内の駅舎設置反対運動があり、このことは、後に八木に商業的繁栄を譲ることになるが、結果的に今井の歴史的環境を残すことになったといわれる。明治二十九年に、今井町を中心とする地主、企業家が出資して畝傍銀行(後の南都銀行畝傍支店)を創立。今井の木綿生産が明治三十年頃には全盛期を迎えた。その後、
製薬業、売薬業が明治末期から盛んになった。旧環濠内には、古くからの町割りが殆どそのまま残り、約700戸残存する。重要文化財8件、奈良県指定文化財2件あり御坊の称念寺を筆頭に社寺6件を擁していて他地区には例がない。重要伝統建造物群保存地区指定されるなど特異な歴史的遺産を持った町で、今日に至っている。

 Histric Town Imai-cho 歴史的町並み 今井町へご来訪される場合は弊社から100m南西に
今井まちなみ交流センター『 華甍( はないらか ) 』 TEL 0744-24-8719 (月曜日休館)という歴史資料館があります。ここで見学され、資料をもらい歩いて町並みを探訪されるとよいと思います。なお、お近くへお越しの節はぜひ弊社へお立ち寄りください。橿原市には初代天皇の神武天皇を祭神する 『 橿原神宮 』、さらら姫(後の女帝・持統天皇)が数々の歴史的偉業を成し遂げた。里中満智子さんがその愛と苦悩の生涯をドラマチックに描いた王朝ロマン『天上の虹』。ミレニアムに蘇る!藤原京趾、平城京より大きかった藤原京、橿原考古学研究所(橿考研)付属博物館、久米の仙人の久米寺(聖徳太子の弟君の来目皇子が創建)、新しくは橿原市昆虫館など弊社から車で約5〜10分で、明日香村の石舞台、甘樫丘( あまがしのおか )、飛鳥人の華麗な世界を映す壁画の高松塚古墳、世界最古の天文図を持つキトラ古墳、岡寺などへは車で約20〜30分で、桜井市にある日本三大文殊の一つで安倍晴明ゆかりの安倍文殊院、邪馬台国の女王・卑弥呼の宮殿の可能性がある大型建物跡(3世紀前半)が見つかった纒向(まきむく)遺跡、祭祀用とみられるモモの種2千個以上が見つかった。モモは古代中国の神仙思想では、不老長寿や魔よけに効く特別な力があるといわれ、中国の歴史書・魏志倭人伝に記された卑弥呼の鬼道(きどう)で使われたとする見方も浮上しています。薬業関係者ゆかりの三輪明神(みわみょうじん) 大三輪神社・大神神社(おおみわじんじゃ)また、その北に「久すり道」という参道をいくと薬井戸がある狭井神社があります。そちらの方へは車で約30分でいくことができます。悠久の時を超え、ゆっくりと、のんびりと楽しみましょう。



                                                                                                                                                                                                      



   大和の国は やはり・・・大和府

 Nara-prefの歴史と大和府 明治維新を迎えた大和(和州ともいう)は、9奉行の1つである奈良奉行があったことから一時は大和全体を管轄する奈良府が設置されました。しかし、1871年(明治4年)の廃藩置県で改められ、新しく奈良県が生まれます。(東京府[現東京都]、大阪府、京都府の3府を除く6府は県になる)北の端の奈良市に県庁が置かれましたが、1876年(明治9年)奈良県が廃止され、府県統合により、大和は堺県に吸収され、続いて大阪府に吸収され属することになります。1987年(昭和62年)奈良県主催において置県100年祭が催されたとき、先人達が現在の奈良県に予算がなかなかまわってこないということで、苦労して陳情嘆願し、1887年(明治20年)に奈良県の再設置が認められたということを知りました。その後、奈良府に改称運動が起こりましたがまったく存在感が薄く実現しなかったそうである。しかし、なぜその時、もう少し大局的に見るなり、未来を見据えなかったのか疑問であります。また、歴史的に見ても、なぜ府県名を「大和府」なり「大和県」にしなかったか不思議であります。「大和府」を推進していたら展開が変わっていたかもしれません。(その時 歴史は動いた)また、道州制(あるいは広域行政)を導入してはどうかという昨今、大阪府のままでよかったのではという人もいます。しかし、心は大和府または大和県または大和州であります。府・県・州庁所在地は中和(創造
飛鳥市)が望まれます。

1995年に開かれた「藤原京創都1300年記念祭 ロマントピア藤原京'95」橿原市主催(中和)で催されました。2010年は“せんとくん”で有名になった「平城遷都1300年祭」が奈良市(北和)中心に奈良県主催で開催されました。1988年のなら・シルクロード博覧会も奈良市(北和)中心に奈良県主催で開催されたときと同じパターンですが主催はともかくどうかこの機会に中南和の方へ歴史探訪いたしましょう。

大和の人、特に中南和の人々は「なら」というと奈良県というよりどちらかといえば大仏殿、鹿、平城京などで奈良市だけの一定地域のイメージが強く、大和「やまと」というと県全体あるいは橿原市・明日香村・高取町・桜井市・天理市・田原本町・大和高田市・御所市・五條市周辺(中和)をイメージします。やはり・・・大和府がいい。『大和は国のまほろば・・・』 大和府へぜひお越しください。

大和(やまと)
は大きく3地区に区別されています。北和(ほくわ)地区《奈良市・生駒市周辺》、中和(ちゅうわ)地区《橿原市・明日香村・高取町・桜井市・宇陀市・天理市・大和郡山市・田原本町・大和高田市・御所市・五條市周辺》、南和(なんわ)地区《吉野郡周辺》であります。それぞれの境界線は曖昧であります。近年は西和地区、宇陀地区もあったりしますし、天気予報のように単に北部、南部と表記されることもありますが、何かしっくりきません。大和は北和、中和、南和がいいのではないかと思います。また、北和、中南和という分け方をする場合も多くあります。・・・大和は一つ。聖徳太子の十七条憲法 一曰。以和為貴。「和をもって貴しとなす」の和の精神を大切にしたいものです。






神農様あれこれ








         
      















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